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BIOGRAPHY

​ORITO PROFILE

1995年、アル・グリーンを70年代の大スターへと仕立てた傑物、ウイリー・ミッチェルのプロデュース、メンフィスは「ローヤル・レコーディング・スタジオ」録音によるアルバム「SOUL JOINT」で逆輸入デビュー。

このアルバムは日本に続いて、アメリカ、イギリスでも矢継ぎ早に発売され、メンフィスで行われたデビュー・ショウケイスの模様は日本人としては初めてメンフィスの「名誉市民」の栄を浴すというトピックもあり、CNNで全世界に配信される。日本でもテレビ朝日の「ニュース・ステーション」が特集枠を組み、この模様は「大型国際派シンガーのデビュー」と大々的に放映される。

 

1997年には全編日本語詞によるセカンド・アルバム「SOUL FOOD」を発表、国内での活動を軌道に乗せる。これを機に、リアルなドメスティックなソウル・サウンドというものを独自に追求し始めたORITOは某雑誌の対談でK DUB SHINEと邂逅、そこでブラック・ミュージックに浸かったパフォーマーがどう日本語に取り組んでいくべきかという点で意気投合、1997年にK DUB SHINEが発表したソロ・アルバム「現在時刻」に収録された「独り言」で共演を果たす。ここで彼と共有されたアーティスト・マインドがその後のORITOの歩みに決定的なヒントをもたらす。
 

サード・アルバムの制作もこれとほぼ同時期にスタートを切り、T.KURA、ゴンザレス鈴木といったプロデューサーとのコラボレートにより、日本人R&Bシンガーとしての前例のない新たな地平を切り開いていく。その中から、98年の10月にはゴンザレス鈴木&ハウス・ファンデーションのプロデュースによるボズ・スキャッグスのカヴァ「Low Down」のディープ・ハウス・リメイクをリリース。これはクラブで即刻人気の盤となり、限定でプレスされた12インチ・シングルは発売後約1週間で品切れとなる。その人気のほどを裏付けるように、「Low Down」 はN.Y.のハウスDJ、トニー・ハンフリーズのプレイ・リストにもピック・アップされるという栄誉も掴む。加え、アルバムの目玉となるDJ HASEBEとのプロジェクトも発進、そうして生まれたのが「Dj. Feelgood」、「Forever Close To You」の2曲である。ハードエッジなビートに日本語とは思えないリズミカルなリリックの乗る「Dj. Feelgood」は、更にK DUB SHINEのゲスト・ラップが加わったヴァージョンも誕生し、寺を舞台にしたビデオも話題を集めて、その名を一挙に広めていく。
 

2002年にシングル「Finga Play」をリリース後、長期の休養を挟む事になるが、この間、精力的に若手バンド達とのセッションやゴスペルへの参加、HIP HOPアーティストなどとのコラボを行い、都心からはなれ郊外に移り住んだ本人の環境の変化と共に独自の日本語ソウルへの追求を進めて行く。ギタリストの星川薫との出会いにより、”感謝の歌””メイフィールド”などの名曲を、そしてフリーファンクとの共作で”Our Beat”、更には大阪随一のトラックメイカー”Bach Logic”との共作による”大丈夫、大丈夫”など、日本ソウルシーンに語り継がれるであろう至高の名曲を残す。
 

2008年2月23日、ツアー先の大阪のホテルにて急逝。

同年夏のリリースを目指し、アルバム制作を前年から開始した矢先の出来事であった。

既に録音していた5曲に加え、前年度の”感謝の歌”配信リリースで訪れた地元名古屋での伝説のライブ音源を含めた”団子と珈琲”を同年夏リリース。同時にビクターよりベスト盤が発売。

 

ゴスペラーズの村上てつやを始め、個人とゆかりの深いアーティストであるJay’ed、chaka、Jaye公山などが駆けつけたトリビュートライブは東京、大阪で開催され、幅広いミュージシャンに愛された故人の人柄を証明づけるものであった。

その追悼ライブはORITOSOUL REVIEWという名の下に今も継続的に開催されている。
 
今も多くのプロミュージシャン、音楽ファンに語り継がれる伝説のシンガーである。

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